駿台倶楽部の生い立ち
明治大学野球部は、明治43(1910)年に結成されたが、OB組織である駿台倶楽部がいつ誕生したかは残念ながら明確な記録が残っていない。
現存する文献では、はじめて駿台倶楽部のゲームが出てくるのが大正11(1922)年野球界11月号である。
大毎球団の東京遠征の際、駿台倶楽部と対戦したことが掲載されている。
10月29日、場所は芝浦球場。駿台の先攻で始まり、3回に木原のタイムリーで1点先取。さらに5,6,7回と得点して6-1で快勝した。圧巻は渡辺投手、2安打、13三振の力投。野球界の戦評によると「ファンは大毎の勝ちを予想したが、渡辺の出来上がりよかりしに」と渡辺投手の好投を称えていた。なお当日の観衆は2千人、関心が高かったことが窺える。
ちなみに駿台のメンバーは次の通り。
(原文のママ)
(捕)梅田
(二)中沢
(右)木原
(投)渡辺
(遊)谷沢
(三)富岡
(左)大門
(中)小西
(三)稲葉
(右)井上
駿台倶楽部といっても渡辺-梅田のバッテリーの他、木原、稲葉、谷沢の5選手は現役選手、井上は連盟登録ではマネージャー。OBは中沢、富岡、大門、小西の4人だけ。いわば現役、OBの混成チームだが、早稲田OBの稲門、慶応義塾OBの三田倶楽部も現役が入った混成チームで試合をしていた。
大正12年4月21日、豊中球場で明治大学対駿台戦が行われていたことが明治大学野球部史の第1巻に掲載されている。当時はリーグ戦中の地方遠征が許されていたようで、21日駿台、22日に神戸高商とゲームをしているが、野球部史によるとこの関西遠征は関西の駿台倶楽部発会を記念したものだ。駿台倶楽部主催、大阪毎日新聞社後援となっている。
関西の駿台倶楽部が、大正12年に発足したとなれば、それ以前に東京において駿台倶楽部が結成されていたわけで、少なくとも明治43(1910)年に野球部が結成されてから、12年後(大正11,1922)年には野球部OBによる駿台倶楽部が誕生していたのではないか。
戦前は東京六大学野球リーグ戦が、最も人気があり、技術的には最高だったこともあって、六大学OBによる各大学のOBによる定期戦も盛んに行われていた。
その発端となるのが、大正10(1921)年の三田-稲門戦の10数年ぶりの復活。大正12(1923)年には駿台-稲門の定期戦が春秋2回、芝浦球場で開催されることが決まった。三田-稲門戦と違い現役選手の出場制限がなかったのでベストメンバーが組めた。
定期戦の第1戦は4月1日。11-10で駿台が惜敗した。
駿台のメンバーは次の通り。
(原文のママ)
(捕)梅田
(一)谷沢
(右)小西
(遊捕)岡田
(一)大岩
(投)村井
(三二)中沢
(二遊)横沢
(左)大門
(三)久礼
(投中)湯浅
(中三)楯谷
そうそうたるメンバーで岡田、中沢、横沢、小西の4氏はのちに野球殿堂入りしている。