概要・年表

別府体制のスタート

7季目で宙に舞う別府監督

田中が連盟2千本目の記念アーチ

 

島岡―別府体制でスタートした明大。昭和天皇の崩御で昭和から平成に代わった、明大も春のリーグ戦の第1週(早明戦)が終わった後の4月11日、島岡吉郎総監督が亡くなった。享年78歳。
 
 昭和27年1月1日、明大助監督兼明治高校の監督とはいえ、学生時代は応援団長だった異色の存在だけに球界に大きな波紋を呼び、主力選手の集団退部で社会問題にまでなったが、平成元年に亡くなるまで42年間野球部の指導的地位にあって明大野球部を隆盛に導いた功績は大きい。
 
 カリスマ的存在であった島岡総監督の死去は、野球部にとってなにものにもかえられない損失だったが、幸い島岡総監督に旧制明治中学の監督のころから支えて来た、別府隆彦氏が前年秋に監督になっていたので、大きな波乱もなく、スムーズなバトンタッチがきた。
 
 春のリーグ戦は第1週が伝統の早明戦。明大は1回戦が舟山の好投で、2回戦は東瀬―赤羽根のリレーで連勝。その翌日島岡総監督の訃報に接した。生前島岡総監督は「打倒早慶」を旗印に、部員を叱咤激励してきただけに、早明戦の連勝は亡き島岡総監督へのなによりの“はなむけ”になった。
 
 つづく明立戦は1回戦こそ落としたが、2,3回戦を明大得意の粘り強さを発揮して勝ち点をとり、島岡監督の弔い合戦とばかりに頑張ったが、明法戦で、力を出し尽くした感じ。慶明戦はストレート負けで3位に止まった。
 
 秋のリーグ戦は、第2週の明立戦に負けたのが、結果的には勝敗を分けてしまった。
 
 明大は早大に連勝、それと連続完封勝ち。慶大にも勝ち点をとる健闘を見せたが、いま一歩及ばなかった。
 
 日米大学野球の全日本チームには三輪捕手が選ばれ、秋のリーグ戦では鈴木文雄外野手が4割1分9厘で首位打者。
 
 高尾コーチは勤務先の都合で勇退。平成2年から指導体制は別府監督、岩崎亘利、卯木敏夫助監督、国分善俊コーチ。
 
 春は上田3勝、窪田、鹿島各2勝。特にエース上田の活躍が光り、打ってはチーム打率2割8分7厘とリーグ最高打率をマーク。特に青柳、黒木、菊池、大平、三輪と3割打者を5人もだしながら2位に甘んじたのは、敗れた早明、慶明4試合に決定打がなかったこと。
 
 秋は明東1回戦で六大学通算800勝をマークしたが、主軸の三輪の欠場が響いたのか、春にリーグ1位のチーム打率を記録した打線が2割4厘と最低となり、投打ともに振るわなかった。
 
 10月25日には元明大野球部長で学生野球協会の会長もつとめられた武田孟先生が逝去された。享年94歳、11月22日には青山葬儀場で告別式が行われた。
 
 平成3年からは、岩崎、卯木両監督に代わって、国分コーチが助監督になり、コーチには川口啓太氏が就任した。
 
 平成3年は春、秋とも慶大が優勝、明大は2シーズンつづけて2位に終わった。
 
 春は勝ち点が同じ4だったが、1勝差で覇権を逃し、秋は早、慶両校に勝ち点を落としたことが響いた。
 
 春は窪田が5勝、秋も窪田、河野が頑張ったが、ともに打線に決めてを欠いたのが響いた。春はトップバッターの大平4割2分4厘と気を吐いたが、4番を打つ三輪が4本もホームランを打ちながらここ一番でヒットが出ず、秋は、大平、三輪の不振が命取りになった。
 
 また明東2回戦で明大は13盗塁とリーグの最多塁打タイ記録をつくった。
 
 日米大学選手権の代表には三輪、鳥越両選手が六大学選抜には、窪田、河野、大平、鳥越4選手が選ばれている。
 
 平成4年春のリーグ戦は東大を除く5校の実力が接近、まれにみる“戦国リーグ戦”となった。
 
 明大は前年度春秋2連続2位となった時の主力選手が多く残ったことで優勝候補にあげられていた。まず明東戦は窪田、佐々木の完投勝利で連勝。続く早明戦も1回戦が鈴木、鳥越の2ホーマーを含む18安打で13x-4と大勝、2回戦は一転して佐々木が早大を2安打完封。4連勝と上々のスタートを切った。
 
 ところが、第5週の明立戦で勝ち点を落としたことで東大を除く5校が勝ち点2となり、負け数の多い立大を除く早、慶、明、法の4校に優勝の可能性がでてきた。
 
 第6週の慶明戦は1回戦に1-3とリードを許す苦戦だったが、9回表田中の2ランで同点に追いつき、10回5本の長短打で一挙に5点を取って先勝。2回戦は9回裏柳沢のサヨナラホームランで劇的な勝利を収めた。
 
 柳沢は、2、7、9回と一試合3ホーマー。なんとリーグ史上5人目の一試合3ホームランであり、田中の同点ホームランは六大学リーグ2000本目のというメモリアルアーチでもあった。
 
 明大のドラマチックな攻撃はなおもつづき、明法1回戦こそ落としたが、2,3回戦とその佐々木が連続完投勝ち。しかも2回戦はその佐々木が中前にサヨナラヒットを打つという離れ業を演じた。
 
 かくて明大昭和61年秋以来11シーズン振りに25回目の優勝を飾ったわけだが満票でベストナインに選ばれた佐々木―柳沢のバッテリ-を中心に投打のバランスが取れていたことが勝因だろう。ちなみにチーム防御率は1・84、チーム打率2割9分7厘はともにリーグ1だった。
 
 第41回全日本大学選手権大会にに東京六大学代表として出場した明大は1回戦シード。2回戦に関西六大学代表の京都産業大学を4-2で降したが準々決勝で神奈川大学リーグの神奈川大学に0-3で敗れた。
 
 第21回日米大学野球選手権には佐々木-柳沢のバッテリーが選ばれて出場した。
 秋のリーグ戦は、9月12日の開幕戦で1番バッターの鳥越が明東1回戦の1回表、左翼先にホームランを放ち、これがリーグ戦史上初の開幕先頭打者ホームランという記念すべき一発だった。
 
 鳥越、田中の2本のホームランで4-2と先発した明大は、つづく2回戦でも鳥越の2試合連続ホーマー(通算5号)柳沢の通算6号と2本のホームランで8-1と大勝で東大戦に連勝したが、慶明戦に連敗したのが響き、明立、早明戦には勝ち点をとったものの、明法戦にも勝ち点を落として3位に甘んじ、4割1分5厘でベストテン2位になった林外野手がベストナインに選ばれただけにおわった。
 
 この年は3月31日に明東単独でハワイ遠征した。

 

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