概要・年表

島岡時代の終焉

63年に大渓助監督も退陣

竹田4連投など力投光る

 

61年秋の優勝の原動力となった武田、平塚両エースと佐藤捕手の優勝バッテリーが最上級生になった62年は優勝候補の最右翼と見られていたが、春は3位、秋は4位に甘んじた。
 
 特に春は緒戦の東大戦に竹田、平塚がともにシャットアウトで完勝。つづく第3週の早明戦も2試合とも1点差という接戦を制した。1回戦は竹田が完投勝利。2回戦は平塚―竹田のリレー。連覇に向けて順調なスタートを切ったと誰しもが思った。
 
 第4週の明立戦も1回戦は延長12回3-3の引き分け。2回戦も延長戦になって11回裏にサヨナラ負けしたが、3回戦は逆に9回高橋のサヨナラ安打で雪辱。4回戦を向かえた。
 
 4回戦も3度延長戦に突入する激闘、13回裏ついに武田が力つきて敗れた。結果的にこの明立戦と、6週の慶明戦に勝ち点を落としたのが響いて連覇はできなかった。
 
 また明立戦で4連投した武田は36イニング3分の1、478球も投げぬいた。ベストナインにこそ選ばれなかったが、防御率2・16は優勝投手志村(慶)についで2位。その力投はすばらしい。
 
 秋は武田が春の連投の疲れから不調だったことが響き、むしろ2年生の舟山投手に頼らざるをえなかったことが4位に甘んじる結果となった。1人気を吐いたのが高橋。48安打数21安打、4割3分7厘5毛で法大の中根と同率で、リーグ史上3度目の同率首位打者となった。なお高橋は春、秋連続してベストナインに選ばれている。また武田は全日本に選出され、第16回日米大学野球世界選手権大会に出場、第3戦に先発している。
 
 63年春は第1週の早明戦に連勝しながら、2週目の明立戦に連敗して早々と優勝争いから脱落したが、明法戦はなんと昭和36年春の慶明戦以来10度目となる5回戦に突入。延べ42イニングを破った気力は学生野球の手本として賞賛された。
 
 63年秋のリーグ戦終了後、昭和40年から47年までの7年間と、54年の監督を含め14年間、助監督、あるいはコーチとして島岡監督を支えてきた大渓弘文氏と関谷俊郎コーチが退陣。明くる年から島岡総監督、別府隆彦監督、高尾康平コーチの新布陣で臨むことが決まった。

 

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