概要・年表

充実のとき

28シーズンで10優勝

50年は春秋連覇

 

44年の春以来再びスランプがつづく。45年などは春秋といえども5位。47年春は内藤、上田頑張ってトップを突っ走りながら、最後の明法戦に連敗したのが命取りとなり、早慶戦で勝ち点をとった慶大に1勝の差で逃げ切られてしまった。
 しかしこのあたらから地力をつけ、ついに48年秋、9シーズン振りに15回目の優勝を成し遂げた。投手陣では上田が安定し、丸山が力をつけてきたが、なんといってもバックの堅い守りが大きかった。シーズンの総失策77のうち、明大はたったの5.次に少ないのが慶大の10であることをみてもいかに、守り勝ちしたかわかる。明大伝統の“守りの野球”の勝利だった。
 
 またこのシーズン斎藤、鈴木と打撃1,2位を独占、ベストテンに3人、ベストナインに5人も送り、明大としては比較的バランスが取れていた。さらに樋野選手が早明1回戦で史上13人目の2打席連続ホーマー、高尾選手が史上14人目の満塁打を明立2回戦で打つなどの珍しく本塁打の記録をつくった。
 
 50年は春秋連覇と明大としても記録的な年度だった。上手投げの名取、アンダースローの上田とエースを2枚もっていることがなんとしても心強い。春は勝ち点5、10勝3敗の完全優勝だが、名取が7勝2敗、丸山が勝1敗、防御率1・93に防御率1.67とエースが頑張った。
 
 秋は緒戦の明東戦にストレートを喫する波乱があった。しかしつづく早明戦に連勝して、チームをいち早く建直したことが良かった。優勝の原動力は丸山、9試合に登板して7完投、3無得点勝利、1無四球、7勝1敗で防御率0.・80のアベレージが光る。明大は勝ち点4,8勝3敗、2位法大にストレート勝ちしたのがものをいうわけだが、その明法戦で1回戦に完投勝ちした丸山が、翌2回戦にも登板。延長14回を投げ抜いて2安打完投したピッチングが光る。丸山をはじめ、関、伊藤裕、小林の3割打者が4年生。最上級生がチームを引っ張る。まさに理想的な展開だった。
 
 春は安岡、川口、羽田の3人が秋は、丸山、伊藤、関、小林の4人がベストナインに選ばれ、そして伊藤選手が秋の慶明2回戦で史上18本目の満塁ホーマー、またこの試合2打席連続本塁打を打っているが、これは史上15回目(12人目)だ。
 
 秋には明治神宮大会に出場。決勝戦で駒大と対戦、4-1で破り、全日本の雪辱を果たした。明大は神宮大会初制覇である。
 
 翌51年春は丸山、名取の卒業にもかかわらず、立、早、東、慶大といずれもストレートで破る8連勝に、4連覇の声あがったが、無傷で法大との対戦となった。明法戦で江川の前に打線が抑え込まれて涙を飲んだ。51年、52年は法大の黄金時代(4連覇)となるわけだが、法大を苦しめたのはあっぱれだった。
 
 この間に49年秋の八木選手につづいて51年秋が横井選手、52年春は豊田選手と首位打者になっている。とくに51年秋―52年春と2シーズンつづけて明大勢がタイトルホルダーになるのは珍しく、明大としてはじめてのこと。さらに52年春の明法2回戦では豊田選手が7打席7安打を記録している。
 
 53年春にも優勝している。勝ち点5の完全優勝だが、高橋、鹿取とエースを二人も持っていることが勝因の第一。その辺は47年の内藤、上田、48年の上田、丸山そして50年の丸山、名取に似ている。
 
 前半鹿取の調子がいまひとつの時は高橋が5連勝と勝ちまくり、優勝をかけての慶明、明法戦は復調した鹿取が力投した。高橋勝1敗、1・69、鹿取4勝1敗、1・71.投手成績の1,2位を明大勢が独占した。そして例によって、6失策リーグで1番エラーが少なかった。
 
 全日本大学選手権大会でも、高橋、鹿取と交代に登板するローテーション。4試合を二人が二回ずつ完投、そして仲良く二人とも完封勝ち1回に、自責点1のゲームが1回。危なげなく選手権を獲得したが、なんと秋山―土井のバッテリーで29年、30年と連覇して以来の優勝だ。これはその後出場した3回とも優勝できなかった反省に立ち、リーグ戦後も気を緩めずに練習をさせたからで、いかにも島岡監督らしいではないか。
 
 なお53年には秋の明東2回戦で、百村選手が史上5人目の3試合連続本塁打を、西選手が秋の慶明1回戦で史上4人目の初打席ホームランを打っている。
 
 53年、日米野球の後にブラジルに遠征した。島岡監督以下38人の大世帯で5連勝1敗2分けの成績を残している。50年代は海外遠征が多く、50年にはハワイ(2勝4敗)51年台湾(5勝1敗1分け)55年米国(大会に出場してBブロックで優勝、決定戦で2位)と転戦している。
 
 ブラジル遠征の後、53年秋に島岡監督が退陣。光沢毅氏が監督に就任したが、勤務先の都合で1シーズン限りで交代、大渓弘文氏が54年春から監督をつとめた。しかし55年、明治大学創立100年を飾るために学校、OBからの要望で再び島岡監督がカムバック。以来大渓コーチの補佐を受けながら昭和63年に逝去するまで監督をを続けている。27年に監督就任以来、総監督としてユニフォームを脱いだときもあるが、42年間一貫して野球部の指導的立場にある。野球部90年の約半分近くを部のために身をささげた。
 
 54年秋、慶大に負けたが、、1敗の差で法大をかわして優勝した。武藤、森岡を中心とした徹底した継投策。1試合の完投が出ないでの優勝も珍しい。このシーズンもまたエラーはたったの2個。守り勝ちの特徴がよくでている。そして、明治神宮大会も継投策で完勝した。
 
 55年春も連続優勝。緒戦の東大戦に引き分けた以上は順調。森岡、松本の先発に対する武藤の抑えと強力な投手力に物を言わせて勝ち進んだ。そして全日本大学選手権をもあわせて獲得した。
 
 56年春は投打にバランスがとれた優勝だった。チーム打率(2割6分3厘)チーム失策(4個)首位打者(栗山)投手成績(森岡)と各部門の1位を明大が独占した。しかしそれでも法大に勝ち点を落として完全優勝でないところが、野球の難しさとでもいおうか。優勝の立役者はエース森岡。13試合のうち12試合に登板、完投6、交代完了6と登板したときは全て責任を果たし、それで7勝1敗、0・81とすばらしい成績を残した。
 
 秋は明立戦で落とした星がたたって2位に甘んじたが、全日本大学選手権では森岡が3試合に完投して優勝。4度目のチャンピオンになっている。
 
 この間に首位打者を二人(55年春・豊田和泰、56年春栗山和行)とくに豊田は、兄の試祐選手が52年春にリーディングヒッターになっており、兄弟揃って首位打者は六大学史上初めて、亦4年春の慶明1回戦では百村選手がサイクルヒットを記録したが、史上3人目である。
 
 58年春は赤堀―柏木―竹田の継投策で勝ちまくるというユニークな戦法が功を奏した。完投は竹田の1試合だけ。それでも柏木が1・35(3勝2敗)で投手成績1位、同4位の竹田も6勝、2・48と立派な成績を残した。攻撃陣も主砲広沢を中心に着実に打ちまくった。特に広沢は春秋連続リーディングヒッターと史上2度目の快挙をうちたてた。
 
 59年秋の優勝は58年同様に竹田、広沢を中心としたものだが、善波主将以下竹田、広沢、篠原、菅原、金敷の最上級生に、福王、大森と戸塚(2年生)を除くレギュラー8人までが上級生だったので安定感があった。竹田を始め善波、福王、戸塚、篠原と5人もベストナインに選ばれたことでもわかる。
 
 広沢は最後の学年こそ記録はつくれなかったものの、58年に年鑑10ホーマー、シーズン6本、4試合連続と数々のホームランをつくって、明大最高のスラッガーと呼ばれた。竹田は59年秋には7勝とそのファイトで2度の優勝に貢献している。
 
 60年は春、秋とも優勝から見放されたが、秋には福王が4割7分1厘の高打率で首位打者となり、61年春の明立1回戦で戸塚がサイクルヒットを記録した。そして61年秋の優勝となるわけで、部創立75年を飾るにふさわしい優勝だった。
 

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