概要・年表

第二期黄金時代

秋山、土井らの27年組で花が咲く

守りの野球で栄冠を

 

28年秋の優勝。それは島岡監督にとって初めての栄冠でもあり、明大としては17年春以来11年ぶり、戦後初めての夢にまで見た優勝だった。
 
 実はこのシーズンも明大は争優圏外と見られていた。当時は六大学の黄金時代。各チームとも充実したメンバーを持ち、明大が島岡監督のもとで生まれ変わったことは認められても、戦力的には早慶立と互角に戦うにはまだ力不足というのが大方の予想であった。
 
 案の定、早々に早大に連敗した。続く明法戦も勝ち点はとったが、延長11回0-0の引き分けと苦戦が続いていた。それでも着実に勝ち点をとっていったことが、後になって生きてくる。早大は立大に、慶大は明、立に勝ち点を落とし、立大は慶大に1敗したため、明立戦で連勝すれば・・・という条件付だが、優勝のチャンスがでてきた。 だが、立大は優勝候補で一番先頭を走っている。1回戦は秋山で勝った。1ゲームも落とせない明大、秋山の連投が予想されていたが、2回戦はリリーフ専門の霞本が先発した。実はこのシーズン霞本が最高のピッチングを見せていた。島岡監督が彼のスタミナに目をつけ、この大事なゲームに起用して成功した。
 
 霞本は7回まで抑え、夕やみ迫るころ剛球の秋山をつぎ込んだ島岡采配がズバリと当たり、3-0で連勝。残る早慶戦で早大が1敗すれば明大の優勝が決まる。早慶1回戦終了と同時に、神宮のスタントで感激にむせぶ島岡監督の姿があった。NHKラジオの全国中継で語った、”総理大臣になったより嬉しい”の言葉はいかにも島岡監督らしかった。
 
 初優勝の跡を振り返ってみると、守って守って守り抜く島岡監督の考えがよく出ている。メンバーの編成は、”守りが優先”守備が堅実で、肩が強くて、足が早い。少々のバッティングの不足には目をつむっても、又そのバットにしても打力より渋くてもいい、確実にヒットを打つ選手が起用された。
 
 ランナーが出ればバントで送り、三塁に進めばスクイズ。1点でもリードすれば、4番打者でもベンチに下げて守備固めに入る。もちろんこれは秋山を中心とした投手陣が抜群の力を持っていたから出来た芸当だが、守りの野球はその後のプロ、アマを通して野球の主流になっている。当時は"攻撃こそ最大の防御”と攻撃重点の野球がハバをきかせてたいただけに、時代を先取りしていたわけだ。
 
 さて28年秋だが、リーグ戦直前にエース大崎がプロ野球阪神タイガースに入ってしまったが、秋山、露本に杉本、穴沢と1年生の好投手を得て、ピッチングスタッフは充実していた。秋山は安定感を増し、5勝2敗、防御率1.20.だが、霞本はそれ以上にアベレージを残した。31回3分の1投げてついに1点も許していない。チーム防御率0.98.チーム打率は1割9分2厘、いかに守りの野球で勝ったかがわかる。
 
 島岡監督の守りの野球は40年以上もたった今日でも変わるところがない。61年秋はチーム防御率0.02、エラーはたった2個。4位のチーム打率でも完全優勝ができる秘密はここにある。
 
 戦後の初優勝で明大は一挙に早慶に拮抗、いやそれ以上の評価を受けるようになった。29年春にも優勝、連覇で優勝が11回になり、30年春も優勝。戦後初めて黄金時代と呼ばれる強力なチームをつくることができた。
 
 29年春には優勝候補にふさわしくスタートから快調に勝ち進んだ。まず明東1回戦。エース秋山の右腕が冴え、22三振のリーグ新記録をつくった。この記録は61年に愛知工大の西崎投手に破られるまで30年間もアマ、プロを通して日本球界のレコードでもあった。
 
 このシーズン、秋山は凄みのある球でバッターを圧倒、6勝2敗、86三振、防御率0.45。連覇の原動力であった。秋山を助けたのは穴沢、霞本、杉本と相変わらず強力な投手陣を中心とした守りの野球で、順調に勝ち点をあげていたが、最後の明立戦で打力不振がブレーキとなり勝ち点を落とした。早慶戦の結果を待つことになった。早大が1敗して連覇が決定した。勝ち点4、9勝3敗。チーム防御率にいたっては0.0014という驚異的なアベレージをだ。
 
 初出場の全日本選手権では、準決勝戦で東都代表の専大を対戦。8回まで杉本の好投で1-0とリードしていたが、9回に1-3と逆転され、敗色濃厚となった。しかし9回裏、明大のお家芸ともいうべきねばりを発揮、沖山の劇的サヨナラ2塁打で勝った。決勝戦は関西六大学代表の立命大に勝って、初めて大学チャンピオンとなった。
 
 29年秋は秋山が坐骨神経痛で途中からユニフォームを脱ぐはめになり、穴沢の頑張りも空しく、5位に転落した。
 
 30年春、”花の27年入学組”が最終学年を迎える。しかし秋山に不安が残る。はたして開幕の明法戦の1回にピンチを招いた。ここを秋山がふんばって切り抜けたのと、1回先頭打者の土屋がホームランを打ってチームを軌道に乗せたことがおおきかった。
 
 秋山は前年までの凄味こそ若干薄くなったが、その分巧味を増し、安定感のあるマウンドさばきで明大を勝利に導いた。彼がローテーションの軸となり、優勝が決まったあとの明東2回戦を除く9試合、つまり優勝に関係する全試合に登板して8勝1敗。先発した6試合は全部完投、リリーフも責任を果たして4交代完了、70回3分の2を投げて自責点4、防御率0.51。まさにエースにふさわしい活躍だ。
 
 緒戦の明法戦から、早、慶、東大と勝ち、明東1回戦で優勝を決め、勝ち点5、10勝1敗。島岡監督になってから初の完全優勝だった。苦戦といえば慶明1回戦を落としただけ。秋山、霞本、穴沢、杉本の投手陣は防御率0.45。配するバックは名手土井を中心にすきのない布陣だった。秋山、穴沢、霞本、土井、土屋、隈、岩岡、沖山、谷井の27年入学組が最上級生になって円熟味を増し、3回の優勝の中でも最も戦力的にも、あるいは精神的にも充実したシーズンではなかったか。
 
 全日本大学選手権では、決勝戦で東都代表の日大・島津と秋山の息詰まるような投手戦となったが、秋山が投げ勝ち優勝した。全日本で連続優勝したのは明大が初めて。
 
 秋は明早2回戦で谷井選手が運命的な落球から、松岡のサヨナラホーマーを誘発して思わぬ連敗を喫した。
 
 これで4年間張り詰めていた27年組の緊張の糸がプツンと切れた感じで、ずるずると負けが続いた。最後の明法戦にやっと勝ち点をとり、面目を少しは保ったが、勝ち点2、4勝7敗で4位だった。
 
 後にプロ野球に入った選手が7人(秋山、土井、黒木、土屋、岩岡、沖山、近藤)もいても、2度と連続優勝ができないところに野球の難しさがでていた。第二期黄金時代のメンバーは次の通り。
 
 28年秋 投手=秋山、霞本、穴沢、捕手=土井、1塁=谷口、福永、2塁=岩崎亘、3塁=佐々木、田中、遊撃=渡辺、岩岡、左翼=沖山、中堅=井垣、右翼=林田、谷井  
 29年春 投手=秋山、霞本、穴沢、杉本、1塁=谷口、黒木、2塁=岩崎、3塁=佐々木、小野、遊撃=岩岡、左翼=沖山、中堅=林田、右翼=谷井、林 
 
 30年春 投手=秋山、霞本、穴沢、杉本、捕手=土井、1塁=谷口、黒木、2塁=土屋、3塁=隈、遊撃=岩岡、左翼=沖山、中堅=鈴木、水野、右翼=谷井 
 
 秋山は前記の3つの三振のレコードのほかに、33勝と明大最高、六大学の歴代2位の勝ち星を残した。霞本の浮き上がってくる球の威力は秋山に匹敵する者があったし、杉本のバネのきいた投球、穴沢の度胸満点のマウンドさばきもすばらしかった。これをリードする土井は肩、捕球、そしてインサドイワークに飛びぬけた天才プレーヤー。戦後の六大学が生んだ最高の捕手だった。
 
 1塁では近藤の名人芸ともいうべきバッティング、2塁は渋くて確実な岩崎のイブシ銀的なプレーが光った。3塁は渡辺、田中、佐々木と強打者がつづいたが、いずれにしても持てる力の半分も出し切れずに卒業したのが惜しまれる遊撃は岩崎の鉄砲肩が圧巻。
 
 外野では三拍子そろった沖山が左翼。右翼には大試合で見出しになるタイムリーを打った谷井。そして中堅はどういうものか井垣から鈴木、水野と守備のうまい人がつづく。このほか守備要員の小野など準レギュラー陣も多士多彩だった。
 
 12月末から1月にかけて台湾遠征した。戦後初めての海外遠征。12勝1分けの好成績を残したが、それよりも日本のスポーツ団体では、戦後初めて蒋介石総統と会見したことが、記念すべきことだ。

 

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