概要・年表

島岡監督の登場

異色の人島岡登場で波乱

精神野球で野球部再建

 

27年1月1日、明大当局は首脳部人事を発表した。部長に武田孟先生、監督に明高監督(明大助監督兼任)の島岡吉郎氏の就任を発表した。島岡監督は21年秋から明高(当時は明治中)監督をつとめ、甲子園にも明高を率いて出場しているとはいっても、学生時代は応援団長で野球にはいわば門外漢。この異色人事の波紋は主力の新四年生の集団退部という形で表面化した。
 
 呼元新主将以下井上、堂園、原、小川、平松、高木、山崎、亀田、古角の各選手に佐藤マネージャーの11名が退部。残った最上級生はのちに主将となった三橋に片岡、橋爪の三人だけだった。
 
 この退部事件は毎日新聞のスクープで部外者の知るところとなり、当時としては大変な問題となった。それでなくともエース入谷、盗塁王永井以下国方主将、畑間、牧野、大林、安藤、菅原などレギュラーがごっそり卒業することになっており、残ったレギュラーは3塁・渡辺、左翼・井垣だけ・・・。毎日新聞の見出しではないけれども、”黒雲なびく駿河台””明大野球部瓦解の危機に瀕す。だった。
 
 その後大学側と駿台倶楽部の和解が成立した1月16日まで、両者の対立は新聞紙上をにぎわしたが、島岡監督は正月早々(1月5日とも、7日ともいわれている)寒空吹きすさぶ隅田公園でトレーニング入り、2月20日から藤井寺球場でスプリングキャンプと、着々と野球部再建の手を打っていた。
 
 この藤井寺キャンプに100名を越える明大志望の高校生が集まったが、その中に秋山、露木、土井、黒木、土屋、田中、岩岡、沖山、谷井と戦後の黄金時代を支える選手たちが参加した。独特の精神野球で野球部を根本から改革した島岡監督の手腕、情熱こそ野球部再建の1番大きなポイントではあるが、こんなに優れた人材に恵まれてなかったら、島岡野球がこんなに早く軌道には乗らなかったと思う。
 
 応援団出身の監督としては特異な存在だった島岡監督は、まず、球場、合宿と設備の充実に力をいれ、そして部員の生活から改めるという独特の手法を用いた。そして早大の大先輩飛田穏洲氏の”一球入魂”を受け継ぐ精神野球。野球の監督としては一味もふた味も違ったイメージで選手を引っ張っていった。
 
 朝六時起きの”早朝練習””一日100ピッチング”選手も島岡監督のきびしい指導に耐えたからこそ、野球部の再建は成功する。島岡野球も実を結び花が咲いたのだと思う。
 
 例え最下位になってもいい、野球部を正しい状態に戻すのだ、勝敗を度外視してもいいという大胆な改革だった島岡監督の登場。
 
 だが1シーズン目(27年春)から成果は見せた。27年春は4位だったが、早大とは5連戦、48イニングの死闘を演じて勝ち点を奪った。特に3回戦は6回から1,2,3,4、点とイニング毎に得点を増し、1-6とリードされていたゲームを11-9と逆転勝ち。そのすさまじいばかりの執念は学生野球の鑑として絶賛を博した。
 
 27年秋3位、28年春4位、そして28年秋ついに優勝した。島岡監督就任以来まだ4シーズン目であった。
 
 27年秋には渡辺、岩崎亘利両選手がともに3割3部3厘でリーディングヒッターになった。27年春にも慶大の松本、福沢両選手が同率で首位打者になっており、27年は春秋とも複数の首位打者が誕生したわけだ。
 

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