概要・年表

野球部復活

復活第1号は部員公募で

20年9月30日に練習開始

 

20年8月15日戦争が終わった。日本は戦いに敗れ、国土は焦土と化した。日本中が呆然として虚脱状態にあった中で、野球界はアマ、プロも意外に早く復活を目指して動き出していた。
 
 明大の場合は岡田源三郎、銭村辰巳といった大先輩が野球部復活の中心人物として動いたが、部員が1人も復学していない。そこで神田校舎の学生課掲示板に「野球の経験のある者は集まれ」と部員募集の張り紙を出した。
 
 掲示板を見て和泉のグランドに集まった学生を、岡田源三郎氏など先輩がテスト。合格した人たちでチームをつくった。岡田先輩が監督、テスト生のなかから、別府選手が主将に選ばれ、野球部はテスト生ばかりで動き出すことになった。
 
 別府先輩の日記によれば、練習開始は9月30日。その後清水、小川、大下、土屋、大塚、中村、と戦前の部員が復学。また貫井、寺田、宝山といった戦前の中等野球の選手が入部。次第にチームの形態が整ってきたが、伝統に輝く明大野球部が、部員公募で再スタートしたとは、とても現在では考えられない。
 
 11月4日、神宮球場で明大現役と駿台倶楽部が対戦、13-8でOBが勝ったが、これが野球部の復活第1戦である。駿台倶楽部には六大学リーグ戦が結成される前の大先輩湯浅禎夫先輩もいる。一方現役のチームは戦前の部員小川、大下両先輩が主力。後にプロ野球で天才バッターとして一世を風びした大下弘先輩は、このゲームの後、家庭の都合でプロ野球(セネターズ)にはいった。次のゲームは12月9日駿台倶楽部対稲門倶楽部。現役は小川、清水、小池、別府各選手が出場した。
 
 野球部はスタートしたが、その前途には沢山の難問が待ち構えていた。合宿は焼け残った雨天体操場を間仕切りして急場をしのいだが、グラウンドは戦争中に陸軍の高射砲陣地となったため、台座(コンクリート)はつくられている。空襲に備えて塹壕が掘られ、自給自足につくったイモ畑もある。とても練習が出来る状態ではない。部員がモッコを担ぎ、整地して少しずつ球場らしくなってが、残骸を飛び越えてフライを追う毎日だった。
 
 ボール、グラブ、バットなど、野球用具もなかったが、1番困ったのは食糧の確保。部員が交代で買出しに出かける。それでも主食はスイトン。だから当時の部員の親睦会は”スイトン会”。米のご飯にありつけるのは、リーグ戦の試合の前後だけだった。

 

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