概要・年表

黄金時代と戦争時代

史上初の4連覇(12.13年)の偉業

18年に突如リーグ戦中止命令

 

4連覇、それはそれは12,13年の春秋連続4回優勝。春秋連続優勝が初めてならば、4連覇ももちろん史上初。それは六大学にとどまらず、日本野球史上に燦然と輝く金字塔であった。
 
 まず12年。11年の優勝メンバーから岩本、尾茂田、の主力打者が卒業しただけでレギュラーが残ったので、投打に充実した布陣でのぞむことができた。春は、9勝1敗、秋は7勝1敗1分け。ともに2位早大を勝率にして3割も離す圧勝だった。
  
 春は出塁率3割5分7厘が示すようにチャンスをつくり、それを22盗塁というケタはずれ(2位は慶大の9盗塁)の脚力にものをいわせて65得点とリーグ最高をマークした。秋も打線がふるい、塁打以外の核攻撃部門でトップを占めた。春の殊勲者は1番打者の垣川。28回出塁して12得点を記録、リードオフマンの責任を果たした。秋の殊勲者は二瓶。16打点とチームの総打点の3分の1を1人で叩き出した。
 
 13年は桜井、二瓶、垣川、村上と4人もレギュラーが卒業したが、吉田を外野にコンバート、亀田、亀井巌の進境で勝ち続けた。春は7勝3敗で早明優勝決定戦になったが、清水早大を完封4-0で快勝。秋は8勝2敗で他校を寄せ付けなかった。
 
 この4連覇の特徴は清水-児玉のリレー策をとったこと。当時の野球常識では考えられない継投策は、体質、タイプの違った選手を組み合わせで面白いように成功。野球界に新しい戦法を開拓した。4連覇中の31勝(6敗)のうち完投は清水10、児玉、長谷川各2.リレーは清水-児玉が13、児玉-清水、長谷川-児玉、長谷川ー清水-児玉、吉田ー児玉が各1.1番の勝ちパターンは清水-児玉のリレーで19試合もある。(13勝4敗2分)
 
 12年は春秋20試合のうち完投が7(清水6、児玉1)、10試合が清水-児玉のリレーで、防御率は清水が1.33、児玉1.95、13年になると清水が著しく腕をあげ、特に秋のシーズンは安定度を増し、10試合のうち完投4、勝ち星の3勝は全部シャットアウト。とくに明帝2回戦の15三振、シーズン62三振、年間100三振は戦後も29年に後輩の秋山投手が破るまでつづいた記録だった。
 
 4連覇を達成したメンバーは次の通り。
 この年の4連覇のメンバーは清水、児玉両投手のほかに、絶好のリードオフマン垣川、華麗な併殺網を誇った亀井-杉浦の二遊間、さらにはスラッガーの加藤、チャンスに強い二瓶、坂田、吉田など、それはすばらしい戦士の集団だった。
 (12年)投手=清水、捕手=桜井、1塁=児玉、2塁=垣川、3塁=二瓶、遊撃=杉浦、左翼=北沢、中堅=村上、右翼=加藤、伊藤、飛田
 (13年)投手=清水、捕手=塚越、御子柴、上林、1塁=坂田、児玉、2塁=亀田、3塁=亀井正、遊撃=杉浦、左翼=加藤、中堅=吉田、右翼=伊藤
14年は清水、児玉が健全な上に剛球藤本も加わって当然優勝がつづくものと期待されたが両エースの故障で藤本に負担がかかり、春は4位、秋も3位に終わった。しかし春秋7勝、防御率0.87というすばらしい成績をを収め、春の片鱗を見せた。
 
 藤本投手が持ち味を発揮し始めると再び栄光が明大に微笑むようになった。15年、エースの清水がプロ野球に走ったアクシデントにもめげず、藤本が投げまくった。春こそ明立慶3校が同率で優預かりとなったが、秋は4勝1敗で優勝した。
 
 チーム打率4位、ベストテンに1人も送れない打力不振もなんのその。5試合に登板、43回3分の1も投げ、自責点3、4勝0敗、防御率0,62。その鉄腕ぶりをいかんなく発揮した。なお春も地力からいけば当然できるものと思われたが、シーズン中に主力選手7人(谷沢監督以下藤本、児玉、松井、阿瀬、加藤兄弟、亀田、伊藤)も東亜大会にとられ、彼らがコンディションんをこわして、大会後の明立2回戦を落としたのは不運というほかはない。この東亜大会参加、あるいはプレーオフの禁止と、当局の圧力でだんだん学生野球も息苦しくなってきた。
 
 16年には春、秋とも惜しいところで優勝をのがした。藤本、林と投手陣はよかったが、打力不振がたたったか。それよりこの年は名将谷沢監督に春のリーグ戦後に召集令状がきた。大学院に残っていた杉浦清氏が監督になったが、その杉浦監督も秋のリーグ戦だけで軍服を着ることとなり、6代目監督に太田稔氏が就任した。
 
 17年には春が藤本投手の活躍で優勝した。藤本は完全試合に登板、無得点勝利3、無四球試合1、9勝1敗。しかも明立2回戦ではノーヒットノーランをマークした。藤本は打っても3割1分、1人ベストテンに頑張って気を吐いた。
 
 戦争のために9月に繰り上げ卒業となったので、藤本、松井など主力選手が抜け、秋は2位タイに終わった。
 
 18年は3月29日突如文部省の命令でリーグ戦は中止となり、対抗戦だけは認められたが、実際には、明大は明立戦がやれただけだった。秋ごろからは学徒出陣で軍隊に入る部員も出てきて、もう練習をするムードではない。11月の送別試合を最後に、野球部は一応解散を余儀なくされた。そして、”冬の時代”となる。

 

pagetop